僕が会話やコミュニケーションについて語る理由。 | 「ひと」と「ひと」の間を考える。『rooftop』〜コミュニケーションとコミュニティ〜

2016/05/27

僕が会話やコミュニケーションについて語る理由。

[日々の想い]

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会話やコミュニケーションに関するブログを最近よく書いているのですが、特に「会話の技術」などというテーマについては、書くことに対して少し葛藤があるのです。

会話の技術などというものにとらわれてしまうと、会話がつまらないものになってしまうと思っているからです。

また、100%うまくいく会話の技術というものも存在しないのではないかと思っています。

さらに、会話の技術は、会話をより「良く」するためのものといえますが、そもそも「良い会話」とはどんなものでしょうか。

論理的で筋の通った会話こそが「良い会話」と考える人もいるでしょうし、どんな相手とでも話題に困ることなくスラスラと続く会話こそが「良い会話」と考える人もいるかもしれません。

確かに、会話の技術を身につけることで、それぞれが考える「良い会話」に近づけるかもしれません。そんな「良い会話」が心地いいと感じることもありそうです。

でも、なんだか会話のルールや枠のようなものにとらわれ過ぎている気もしてしまいます。

本来、会話はもっと自由なものだと思うわけです。

論理的でない話をわかりにくいと批判されたり、うまく会話が続かないことをバカにされたりすることは多いかもしれません。

でも、会話に限らずですが、問題は客観的には存在せず、常に個人の主観で存在しています。

つまり、論理的でない話や、うまく会話が続かないことを問題と感じるのは、その人の主観ということです。

常識的・社会的に問題だと主張されたとしても、それは、常識や社会性を大切にするというその人の主観です。

論理的でない話が面白いと感じたり、抽象的な話から色々な発想をふくらましたり、沈黙も一つのメッセージとして沈黙の多い会話を楽しむ人もいるわけです。

さて。

とはいえ、会話に対して不安や苦手意識を感じているのであれば、会話の技術を学ぶことで不安を解消したり、技術を選択的に活用することで、会話を自分なりに発展させるのであれば、会話の技術も大切に思えてくるのです。

「守・破・離」という考え方があります。

剣道や茶道などで、修業における段階を示したものです。

「守」は、師や流派の教えや型を忠実に守り、確実に身につける段階です。

それに続く「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを色々な視点から取り入れ、技を発展させる段階です。

最後の「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階です。

つまり、会話についても、一つの型を学ぶことから始め、慣れてきたら色々な型を試し、最終的に自分の会話をつくり出していくのであれば、会話の技術という型はとても意味のあるものだと思うのです。

会話に関するブログも、自由な会話に向かうための手段として活用してもらえると嬉しいです。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます☆

型があると完全に従わなければならないと思ってしまう、僕の強迫観念。

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